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言うだけの人生か、叶えていく人生か。

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    toyooka hyogo オーベルジュ豊岡1925

    asago hyogo 竹田城 城下町 ホテルEN

    OSAKA CASTLE 大阪城西の丸庭園 大阪迎賓館

  • 大切なものを失った日に生まれたからこそ、残したいものがある。

常識とたたかい、世の中を変えていけ。SCROLL
何をすれば、自分は輝くか。社会に出る前に、見つけよう。SCROLL
何をするか。それを、誰とやっていくのか。

人のちからで、 地域の魅力を掘り起こせ。

STORY 04

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1年で大きな赤字を出した施設は、 街中から厳しい批判を浴びていた。

 旧・兵庫県農工銀行豊岡支店の建物が、レストラン兼宿泊施設の「豊岡1925」としてリニューアルオープンして1年。その運営は困難を極め、1年間で3000万円以上の赤字を出したことが地元紙で大々的に報じられた。リニューアルの際に税金を投じて施設の改修が行われていたこともあり、この件は市議会でも大いに糾弾された。当然、まちの人たちからも、冷たい視線が注がれていた。
 そんな中、前の事業主に代わってこの建物の運営と一切の責任を負うことを約束する事業会社が現れた。それが、バリューマネジメントだった。

 旧・兵庫県農工銀行豊岡支店の建物は1934年築の、国指定の登録有形文化財。その誕生のきっかけは、1925年にまちを襲った北但馬大震災である。
 豊岡の人々は被災したまちの中から、当時の洋風建築の最先端の技術を取り入れたシンボリックな建物を築き上げた。その建物は、兵庫県農工銀行豊岡支店として名実ともにまちの復興と近代化の象徴となった。そんな、豊岡のまちの人の想いが詰まった建物を、守り抜きたい。バリューマネジメントが運営を引き受けたのはひとえにその想いからだった。
 震災から90年。人の力が、再び試されようとしていた。

他力野がいちばん気にかけたのは、 スタッフたちのことだった。

 豊岡1925には、1年前のリニューアルオープン時から働いてきたスタッフたちが10名弱いた。「これから一体、どうなるのだろう」。彼らにとって、雇用主が突然変わるというのはとても不安なことだった。「新しい環境で、やっていけるだろうか」「いっそのこと、辞めて転職した方がいいのだろうか」。様々な複雑な思いが胸をよぎっていた。
 バリューマネジメントの代表・他力野はそんな一人ひとりと直接、面談をした。雇用主も変わり、いろいろとご迷惑をおかけしている。皆さんにもそれぞれ思うところがあるかもしれない。でも、それは一旦心の中に収めていただいて、一度、私たちに賭けてもらえないか。もちろん、私たちがこの後、雇用を含めた全ての責任を持つ。
 他力野は、これまでの経緯を説明した上でバリューマネジメントの想いをまっすぐ伝えた。

  今こんな状況だから、世間からのご批判を受けながらのスタートになることは間違いない。でも、1年後、みんなで頑張って一緒にやってよかった、このまちにこの建物が残っていてよかったと、そう思えるような場所を一緒に作らないか。
 まだ「熱く語る」ことしかできないということが、他力野にとっては悔しく、もどかしい。しかし、その嘘のない気持ちはスタッフたちに確かに伝わった。「もう一回、一からやってみます」。もといたスタッフ全員、誰ひとり欠けることなく、バリューマネジメントと共に新たな一歩を踏み出すと決意してくれた。
 こうして、旧・兵庫県農工銀行豊岡支店「豊岡1925」は「オーベルジュ豊岡1925」として再出発を迎えた。

建物は変えられない。 人の力だけが頼りだった。

 収支は完全に赤字からのスタートだったため、正直のところ、資金繰りに余裕が一切なかった。
 建物の改装をするなど、ハード面を変えることはできない。バリューマネジメントが変えられるのは、人やサービスのソフト面だけ。宿泊の料金、レストランのメニュー、単価など、人の力で変えられる部分はすべて、徹底的に改革していった。
 さらに、実際に運営していく中で実感したことは、文化財だというだけで、人が来てくれるほど甘くはない、ということだ。何かのついでに寄っていただくのではなく、旅の目的自体がオーベルジュ豊岡1925になることが必要だった。

 そこで目をつけたのが、豊岡・但馬地域が持つ、豊かな「食」の文化である。
 地産地消をコンセプトにし、料理には地元の食材を積極的に使用していくようになった。地元の農家、それも日本で初めてわさびを生産したといわれる農家などと契約を結び、旬の食材を直接仕入れるルートを開拓した。さらに、漁港の仲介の資格を取り、新鮮な魚を仕入れるためにスタッフ自ら競りにまで行くようになった。
 すぐ近くには、日本でも有数の温泉地・城崎がある。「和」のテイストが強い城崎と差別化するため、オーベルジュ豊岡1925では地元の食材を使いつつも料理は「洋」に振り切り、フレンチのメニューを充実させていくという工夫をした。
 地道な努力が実を結び、遠方から訪れてくださるお客様も、少しずつ、増えてきた。しかし、収支の黒字化への道のりはまだまだ遠かった。

観光地ではなく、 市街地にあるからこそできることを。

 オーベルジュ豊岡1925は観光エリアではなく、ごくごく普通の市街地の中にある。
 そういう意味では、遠方からのお客様だけでなくもっともっと、地元の人たちが気軽に集い、つながれる場所にしたいと考えた。スタッフでアイディアを出し合い、ジャズコンサートやお菓子づくりのワークショップなど、定期的にイベントを開催。広間にあるガラスのショーウインドーには販路を持たない地元のパティシエのお菓子を並べ、地元の人たちとの架け橋となった。
 また、カバンの生産量日本一の豊岡には高い技術を持つカバン職人がたくさんいたが、そのほとんどが下請けとなっていた。その職人たちに、自分の作品を売る場を提供し、「カバンのまち、豊岡」というブランド力を構築していくことにも一肌脱いだのである。

 そんなオーベルジュ豊岡1925の姿に当初は厳しいご批判をいただいていた地元の方も、少しずつ理解を示してくださるようになった。シェフ、パティシエ、職人など地元のプロフェッショナルたちと力を合わせ豊岡の想いが詰まった場所をつくっていく。
 豊岡に流れる底力は、新たな挑戦で進化をつづけながら、まちと人を、いつまでも輝かせつづけるのだ。

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